“盛れる”肖像 画家!17世紀のイギリスを美男美女の国にしたヴァン・ダイクの人生と主要作品

バロック、ロココ

こんばんは、大人の美術館ナビゲーターのビー玉(@beedama_lab)です。

本日は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(以下イギリス)を美男美女の国にした画家を紹介します。

現代はスマホアプリを駆使して容姿を “盛る” ことがブームというか、当たり前の時代になっていますが、そんなことは今に始まったことではなく中世の時代から王侯貴族の肖像画はいかに自然に盛れるかが肖像画家の腕の見せ所でした。

そんな “盛れる” 肖像画を得意とする画家の中で最も成功した画家を紹介します。

諸外国から「イギリスは全員が美男美女だと思っていた」と言わしめた17世紀のリタッチ職人ヴァン・ダイク

本日はそんなヴァン・ダイクの華麗なる肖像画の世界にあなたをナビゲートします。

よろしければ、最後までお付き合いください。

若くして才能を見出されたヴァン・ダイク

アンソニー・ヴァン・ダイク『自画像』1613–14年

ヴァン・ダイクはイギリスの上流社会で活躍した画家だったので、イギリス人だと思っておられる方も多いかもしれませんが、生まれはアントワープ(現在のベルギー)です。

貴族ではなかったものの、裕福な両親のもとに12人兄弟の7番目として生まれました。

精密画を得意とする北方絵画の影響を強く受けて育ったヴァン・ダイクは若くして画家としての才能を発揮し、19歳で友人だったヤン・ブリューゲル(子)と共に工房を構えます。

その頃、しがない画家のひとりに過ぎなかったダイクは運命を大きく変える出会いを果たします。

ルーベンス『自画像』1623年

運命の出会いのお相手は「王の画家にして画家の王」と称された、西洋美術史上もっとも成功した画家ルーベンスです。

ルーベンスはダイクと同じく北方出身の画家でしたが、ヴァン・ダイクと出会ったころはすでにルーベンスの名を知らないものはヨーロッパの上流階級には存在しないほどの偉大な画家となっていました。

ヴァン・ダイクはルーベンスに才能を見出されてルーベンス工房の筆頭助手として仕事を手伝うようなるんです。

その頃は画家はひとりで絵を描いていたのではなく、工房全体で一枚の絵を仕上げていました。

例えば構成や顔だけ画家が描き、他は弟子が仕上げるのが当たり前だったんです。中にはドレス専門に描く画家もいたそうですよ。

ルーベンスの工房で仕事をするうちにルーベンスの絵に多大なる影響を受けます。

テオドシウスをミラノ大聖堂に立ち入らせない聖アンブロス

この絵は、ローマ皇帝テオドシウス1世がテサロニケの虐殺の罰として大司教サン・アンブロスにミラノ大聖堂への出入りを拒まれる場面を描いたものなんですが、片方はルーベンス、片方はヴァン・ダイクの作品です。

ちなみに向かって右がヴァン・ダイクの作品です。ぱっと見はヴァン・ダイクは「犬好き」だったのかなって思うくらいで違いは分かりませんが、人物に注目すると違いがわかります。

ルーベンスはデブ専・・ぽっちゃり好き、ヴァン・ダイクはスレンダーが好みだったので、人物体格をみると二人の特徴がよく出ています。

構成はほぼ同じなので、今ならパクリと言われて大炎上になる案件かもしれませんが、当時は優れた絵画の構成を真似ることはごく普通のことだったんです。

ここまで素直に影響を受けてくれる弟子だと可愛かったんじゃないかと思います。

構図はまんまルーベンスですが、人物の表情などの深みは師匠に負けずとも劣らずといった感じ。

ルーベンスはヴァン・ダイクの特性を見出して「肖像画を描くといい」と助言します。

その助言に素直に応じたヴァン・ダイクの快進撃が始まります。

肖像画家としてイギリス美術の頂点に!

ヴァン・ダイク『べンティヴォーリオ枢機卿の肖像』1623年

ルーベンスのように暑苦しいほど肉感的でお肉が揺れ乱れるドラマティックさはないものの、穏やかで優美な作風は評判になっていきます。

 

館長
館長

これでもビー玉さんはルーベンスが大好きなんですよw

ヴァン・ダイク『マリー=ルイーズ・デ・タシスの肖像』(1630年)


ヴァン・ダイク『リッチモンド公ジェームス・ステュアートの肖像』1637年頃

ヴァン・ダイク『エレーナ・グリマルディの肖像』1623年

たぶん、ダイクは指フェチだったと思うんですよねぇ。指の表現がめちゃめちゃ色っぽくて好きなんですよ♡

とにかく全員美男美女でしょ?

風格を保ちつつリラックスした独特の雰囲気。

必要以上にぽっちゃりと描かれてしまうルーベンスよりも私だったらヴァン・ダイクに描いてもらいたいっです!

ただ、ヨーロッパ本土ではやはりルーベンスの名前が大きすぎて画家としての頂点には絶対に立てないと悟ったヴァン・ダイクは海を越えてイギリスへ渡たります。

イギリスは当時美術後進国だったため、イタリアやスペインで評判の画家が海を渡ってやって来るってことで熱狂的にヴァン・ダイクを迎えました。

どれほど熱狂的だったかといえば

・サーの称号

・多額な年金

・主席宮廷画家の地位

・スコットランド貴族の娘と結婚

・別荘(アトリエ)

この別荘へは、王や王妃が尋ねやすいようにと特別な道路まで作られるという熱愛ぶり。

当時の王チャールズ1世はイギリス王家で唯一在位中に首を切られて処刑された(ピューリタン革命)王様ってことで、良い政治を行ったとは言えない君主ではありましたが、美術愛好家で審美眼だけは確かでした。

美術過疎地だったイギリスにおいて、世界に誇るイギリス「王室コレクション」を築き上げた人物でもあります。

そんなチャールズ1世が肖像画の名手ヴァン・ダイクに熱狂したのは仕方ありません。

ヴァン・ダイク《馬上のチャールズ1世とサン・アントワープの領主の肖像》1633年

ヴァン・ダイク《チャールズ1世》1635年

ヴァン・ダイク『チャールズ1世の騎馬肖像』1637–38年

ヴァン・ダイク『チャールズ1世の三重の肖像画』1635–36年

 

ビー玉
ビー玉

もうね、はしゃぎっぷりが恥ずかしくなるレベル

結果的にヴァン・ダイクはチャールズ王自身の肖像画を40枚、王妃の肖像画を約30枚も描き、優れた美術コレクションを築いた以外は大した功績のなかった王なのに後世にやたらと肖像画が残っています。

『ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン卿』1633年

ヴァン・ダイク『イギリス王妃ヘンリエッタ・マリアの肖像』1636年〜1638年

ちなみにこの見目麗しい女性がチャールズ1世の妃ヘンリエッタ。

絶世の美女ですよね♪

ただ、ドイツ大使が亡命中のヘンリエッタ・マリア王妃に初めて会ったときに、「ヴァン・ダイクの絵画ではとても美しく見えた女王が、思った以上に痩せほそっていて小柄で出っ歯だった」とがっかりした的なことを書き残しています。

加工が少々過ぎていたのかもしれません。

でもまぁ、宮廷画家とは画家として誉高い地位ではありますが、たして美しくない王族や貴族を描き続けないといけない苦労もあったと思います。画家としてはなんとかして美しく仕上げたいという気持ちもわからなくもありません。

とはいえ、盛っていたのはクライアントである王侯貴族だけではないんですねぇ

こちらはヴァン・ダイクの自画像。俳優の山本耕史さん似のイケメン。優雅な身のこなしで紳士の国イギリスで王侯貴族たちを魅了したのも頷けます。

一応、師匠のルーベンスの描いたヴァン・ダイクを小さく貼っておきましょうw

・・・。

残念ながら17世紀イギリスの肖像画は信用できないっぽいです。

師匠ルーベンスは超えられなかった晩年のヴァン・ダイク

ヴァン・ダイク『向日葵のある自画像』1633年

イギリスの上流階級に愛されたヴァン・ダイクですが、師匠のルーベンスの死後はアントワープに帰国。

師匠の後を継いで、美術の中心で宗教画や神話画などの大作を手がけたいという野望があったんです。

当時は絵画の題材でも明確なヒエラルキーがあり、肖像画を書く画家よりも歴史画を描く画家のほうが地位は上に見られていました。画家として頂点を目指したいと思うのは当然です。

残念ながらその夢は叶いませんでした。

師匠の高すぎる名声、そして肖像画家としての自分の名前が大きくなり過ぎたのかもしれません。

ヴァン・ダイクは夢半ばの42歳の若さでこの世を去りました。

肖像画家として生涯を閉じたのは、本人にすれば不本意だったかもしれません。

でも、ヴァン・ダイクの死から150年経って、18世紀のイギリス美術界を牽引した画家トーマス・ゲインズバラは死の床でこんな言葉を残しています。

「我々は皆、天国へ行くのだ。ヴァン・ダイクと共に・・」

ヴァン・ダイクがイギリスの美術界にどれほど大きな影響を与えたかがわかりますね。

ヴァン・ダイク『十字架を背負うキリスト』1625年

個人的にはヴァン・ダイクの描く盛り盛りの宗教画ももっと見てみたかったですけどね。

本日は以上です。お読みいただきありがととうございます。

またのご来館を心よりお待ちしております。

 

 

 

 

 

 

コメント

  1. Nick Ollie より:

    そんなに盛ってくれるのなら、私の肖像画もぜひ描いて欲しかった、、、なんちゃって。

    確かに指フェチだったんだろうね、白く浮き上がる指の美しいこと!

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