こんばんは!美術ナビゲーターのビー玉です。
本日のテーマは、取り上げているようで取り上げていなかったミュシャです。
いや、意識的に避けていたんですけどね(^▽^;)
ミュシャの絵は大好きなんです。描かれる女性がキレイですし・・・
ただ、ミュシャ自身に画家らしいスキャンダルが全くない( •ὢ•)
スキャンダルがなくても書いていいんですよ
ミュシャが有名になるきっかけとなった大女優サラ・ベルナールとは、6年の契約を結び密な時間を過ごしたと思うんですが、恋愛関係ではなかったようです。
なかったからこそあれほど神々しく描けたのかもしれませんね。
今日は、少し真面目な内容になるとは思いますが、ミュシャの描く美しい女性たちと当時の雰囲気を感じられるような写真多めにおおくりいたします。よろしければ最後までお付き合いください。
チェコで生まれたムハはパリで画家ミュシャとなる!
アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)は1860年チェコのモラヴィア地方のイヴァンッツェという小さな村で生まれ、チェコ語での名前の発音はアルフォンス・ムハ。
のちにフランス語の発音でミュシャと呼ばれ、19世紀にブームとなったアール・ヌーヴォーの寵児ともてはやされる画家となります。
ミュシャが9歳のころに描いた磔刑図です。子どもの頃から絵はうまかったようですね。
絵以外にも教会の聖歌隊として音楽にも親しみ、芸術が間近にある幼少時代をすごしました。
15歳の時に声変わりして聖歌隊をやめてから、本格的に画家を志しウィーンへ、そのご舞台の背景画家や肖像画家を経て、28歳のときにパリで本格的に絵の勉強を始めます。
当時まだ建設中だったエッフェル塔。
苦学生自体はタヒチに出かける前のゴーガンと同じ下宿だったんですよ♪
ミュシャはズボンを履かずにオルガンを弾くゴーガンの写真を残していますが・・
ミュシャとゴーガンは仲良しだったようですが、 “特別”に仲が良かったわけではなかったようです( •ὢ•)
スキャンダルを探さなくていいんですよっ
30代になったミュシャは印刷会社所属の商業デザイナーとして本の挿絵やカレンダーなどを手がけて生計を立てていました。
そして!ミュシャ34歳の12月。運命の出会いを果たします。
当時、世界で最も偉大な女優と讃えられたサラ・ベルナールです。
彼女の年始の公演のポスターを依頼されたんです。異例の大抜擢!!
なぜ無名のミュシャが大仕事を受けたのかといえば、ちょうどクリスマスでミュシャ以外のデザイナーはみんな休みをとっていて、出勤していたデザイナーはミュシャしかいなかったからだと言われています。
これは絵画好きな方なら誰も知っている有名な逸話ですね!
アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』1894年
その時描いたのが代表作となる『ジスモンダ』。
ミュシャにっとては初めてのポスターの制作でした。
ではでは、動線を意識してポスターを見てみてください。どんな風に視線が動きましたか?
モデルは有名な女優サラですからね。多くの人が、まずサラの顔に視線が引きつけられたと思うんですよ。そして彼女の目線に導かれて自然にシュロの葉を辿って天辺に公演のタイトル『シスモンダ』、再びシュロの葉を辿ってアーチ型に配置された主演女優の名前「ベルナール」、衣装を辿ってポスター下部には劇場名配置されています。ポスター全体に自然に目が動き、公演タイトルと主演女優、劇場名が流れるように読めて記憶に残ります。計算され尽くした構図です。ポスター初仕事とは思えません!!
私はこの隙のない動線のポスターをみると、鳥肌たっちゃうんですよね(; ・`д・´)
自分の芸に厳しく気難しかったサラも納得の出来上がりで、一発OK!
この後6年もミュシャと契約を結び続けます。
ポスターは張り出されるやいやな盗難が相次ぎ、大きな話題となりました。
その当時、すでに写真も映像もあったんですけどね、それらの最新技術を使ったポスターよりもミュシャの描くポスターが庶民の心を捉えたんです。
それまで、商業ポスターの仕事というのは画家にとって名誉なことじゃなかったんですが・・・。
シャンパンのポスターを描いたボナール | |
ダンスホール『ムーランルージュ』のポスターを描いたロートレック | |
19世紀のフランスでボナールとロートレックの2人が商業デザインをアートの粋に押し上げて、ミュシャが商業デザイナーの地位を担ぎ上げました。
では、一夜にして時代の寵児となったミュシャの商業ポスターを見てみましょうか?
イメージ戦略としてポスター
よろしければ、何のポスターなのかを考えならがご覧ください。
私が大好きな広告ポスターなんですけど、これはなんの広告かわかりますでしょうか?
Q:なんの宣伝ポスターでしょうか?
はい!こちらはタバコの製造会社である『JOB社』の宣伝ポスターです。
タバコといっても、葉巻、パイプなどいろんな種類があるんですけど、『JOB社』は巻紙タバコを製造していました。吸うたびに自分で葉っぱを紙で巻きつけるといったタバコなんですけどね、ミュシャのポスターでは、煙が紙のようでしょ?
しっかりJOB社の巻き紙タバコを印象づけるようになってるんです。
肝心の社名が女性の髪で隠れているのも斬新です!
これ、なぜかわかりますか?
当時タバコといえば男性の嗜好品だったんですけどね、女性にもタバコを吸ってもらうためのイメージ戦略なんです。
主役は女性です!
タバコ会社の宣伝ポスターだけど、あくまでもターゲットは「優雅にタバコを吸う女性」なのですよ。
このポスターは大評判になり、広告としてだけでなくポスター自体も販売されて大量に量産されました。狙いは的中!ミュシャの描く女性に憧れたパリジェンヌたちの間でタバコはおしゃれなアイテムとしてブームになったんです。
モンテ・カルロに込められた故郷への気持ち
こちらも綺麗で切ない大好きな作品です!!!
Q:これはなんのためのポスターでしょうか?
ジスモンダと同じように、女性の目線をたどると「モンテ・カルロ」と描かれています。
モンテ・カルロはモナコ公国の都市の名前です。
このポスターは鉄道会社(パリ・リヨン・地中海鉄道)のポスターなんです。
祈るような仕草の女性の背後は地中海のリゾート地モンテ・カルロが広がっています。
花が丸く円を描き植物の茎が長くのびて、夢のようなリゾート地モンテ・カルロへ繋ぐ列車の車輪とレールを思わせますね。
なぜ主役であるはずのモンテ・カルロが後方なんです?
ですね!ミュシャの絵は綺麗なだけななく、ちゃんと政略があります♡
絵の右下には「モンテ・カルロまで列車で16時間の旅」だと描かれています。大切な情報だと思うんですが、おまけ程度です(^▽^;)
このポスター、じつは「モナコの復興支援」のポスターなんですよ。
モンテ・カルロのあるモナコは1793年にナポレオンの侵略によりフランスの統治下にありましたが、1860年に国土の95%をフランスに明け渡す形で独立しました。
バチカンについで、世界で2番目に小さいモナコ公国です。
その大きさはほぼ「皇居+皇居外苑」と同じ大きさ!
モナコ全景
資源もないモナコ公国は生き残りを賭けて荒地を切り開きヨーロッパのリゾート観光地と生まれ変わろうとしていました。
ミュシャの描く女性の後ろに光輪のように配置された花はライラック。春を告げる花です。
髪飾りのザクロは “復活” “再生”の象徴。
ポスターに描かれた女性はモンテ・カルロを見つめ、復興を祈る春の女神なんですね。
鉄道会社のポスターではあるんですが「モンテ・カルロを応援するために観光へ行こう」という意味合いが強いポスターなのです。
ミュシャの故郷チェコは長らくハプスブルク
家の統治下にありましたから、おそらくですが自分の故郷チェコとモナコを重ねて描いたのではないかなぁ・・なんて思います。
『モンテ・カルロ』は復興支援の気持ちを込めたポスターだったんです
ミュシャの結婚。スキャンダルなしの異例の画家
ミュシャ46歳の時に同郷の26歳マシュルカと結婚し1男1女に恵まれます。
結婚生活は円満だったようですよ。
結婚前にベルト・ド・ラランドという女性と生活をともにしていたことはあったようですが、彼女の片鱗は雑誌の挿絵として描かれた数枚の挿絵のみです。
ベルトがモデルと言われている雑誌の挿絵
結婚後は一切のスキャンダルはなく、女性画を得意とした画家にしては異例だと思います。
ミュシャの絵を見ていると、女性を性の対象というよりはどこか神聖なもとして描かれているように思います。
自分を引っ張りあげてくれた大女優サラ・ベルナールに敬意を持ち続けていたのかもなぁなんて思ったり(((uдu*)ゥンゥン
それはそれでロマンチックではないでしょうか(*´д`*)アハァ
『百合』1898年
『四季・春』1900年
『黄道十二宮』1896年〜97年
名声を捨てて祖国を想い描く
パリで売れっ子デザイナーとして名声をほしいままにしていたミュシャですが、1904年にパリから突如姿を消します。
『スラヴィア』1908年
ミュシャはニューヨークを経て故郷チェコに戻っていました。
オーストリアのハプスブルク家の統治下にあったチェコの独立を願い「芸術の力で愛国心を目覚めさせたい」というのがミュシャの生きる指針になっていったんです。
『スラヴィア』はチェコの民族衣装を身に付けたスラブ民族の女神。スラヴ団結の印である輪を掲げ、足元にはハプスブルク家の象徴である鷲を女神の足元に配置することで、ミュシャはこの絵で故郷の独立を訴えました。
その後、スラブ民族の歴史を描いた連作『スラヴ叙事詩』を後半生20年かけて20作品の大作を描きます。
ミュシャの娘ヤロスラヴァ
『スラヴ菩提樹の下での若者たちの誓い(一部)』
『スラヴ菩提樹の下での若者たちの誓い』1928年
スラヴ叙事詩『ルヤナ島のスヴァントヴィト祭』1912年
『ロシアの農奴解放の日』1914年
じつは、これらの絵はめちゃくちゃ大きいんです(^▽^;)
一連の絵の迫力に背中を押されたのかチェコは1918年に独立したんですけどね。第二次世界対戦が始まり、今度はナチスドイツに占領されてしまいます。
その時にスラヴ叙情詩を描いたミュシャは危険人物としてナチスに逮捕され、釈放されるも高齢の体に無理がたたって程なく亡くなってしまいました。享年78歳。
パリの人気デザイナーという地位をすてて、祖国のために命を削って故郷の絵を描いき切った画家です。
2017年にはこれらのスラヴ叙事詩全20作品が来日し東京の国立新美術館で展示されました。
来展された方も多いんじゃないでしょうか?この大きさの絵がならぶと迫力があったでしょうねえ!羨ましいっっ!!!
なんだかんだで長くなっちゃいましたね(^▽^;)
紹介しきれていない作品もたくさんあります。
スラヴ叙事詩は紹介したいと思います(((uдu*)ゥンゥン
またいずれ!!
こちらのお話は動画でもご覧いたけます
本日は以上です。お読みいただきありがとうございます。
また次回お会いいたしましょう。SeeYou(*ˊᵕˋ*)੭
コメント
めちゃくちゃ大きい絵画ですね!
どのようにして描いていったのかも気になります。
20年で20作品ってそんなに多くないと思ったら、こんなに大きな絵だったんだ! 何か魂を感じる絵だなー。
ミュシャというとポスターのイメージしかなかったので、今回の記事でイメージが変わったよ。
ポスターもそんな意図が込められてるとはー。頭脳派でもあるのかな。
(((uдu*)ゥンゥン、スキャンダルがなくても書いていいんですよ(*^▽^*)
ミュシャ氏のイメージって、絵画と言うよりアートだったので、スラヴ叙事詩に驚きました。
ひさびさにスキャンダラスさ無しで読んだ気がするな。(笑)