こんばんは、大人の美術館ナビゲーターのビー玉(@beedama_lab)です。
おしゃれで洗礼されたイメージの印象派の画家たち。そんなリア充たちの中にあり不器用でコミュ障だったと思う画家ベスト3(私の独断)
フィンセント・フォン・ゴッホ
エドガー・ドガ
ポール・セザンヌ
人間関係を拗らせまくって孤独の中で独自の表現を突き詰めた3人ですが、後世にもっとも多大なる影響を与えて若き画家たちのカリスマとなったのがポール・セザンヌです。
まったく新しい絵画表現を構築し「近代絵画の父」とまで呼ばれたポール・セザンヌの人生にあなたをナビゲートします。
よろしければ最後までお付き合いください。
運命の親友との出会い
ポール・セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』1887年
(故郷エクサンプロバンスの風景)
セザンヌは1839年に南フランスの片田舎エクサンプロバンスに生まれました。
父は村のしがない帽子屋から事業を拡大し銀行経営など、たった1代で富を築いたゴリゴリのビジネスマン。
そんな父に跡取りとして厳しく育てられたせいか、セザンヌはかなり内向的な性格だったようです。
セザンヌが中学のころに貧しさからいじめの標的にされてたエミール・ゾラと出会います。
いじめられていたゾラをセザンヌが助けたと言われていますが、内気だったセザンヌが助けに入るというのも違和感がある話です。
たんに巻き添えになっただけかも
助けたといっても、実際はゾラの代わりにセザンヌがいじめっ子たちから袋叩きにあっただけだったようですが、ゾラにしてみたら自分の身代わりになってくれたと感じたのかもしれません。
セザンヌは翌日に友情の証としてゾラから「リンゴ」を受け取ります。
セザンヌの夢は画家
ゾラの夢は作家
二人は将来の夢を熱く語る仲で、ゾラ一家は生活のためにパリに引っ越しましたが、二人の友情は途切れることなく手紙を通して交流を深めていきました。
ゾラに背中を押されて画家の道へ
画家になることを反対され、父の強い希望で地元の大学で法律を学ぶセザンヌ。
絵を諦めきれずに独学で描いていたセザンヌにパリに来て絵を勉強したほうがいいと背中を押したのが少年時代からの親友ゾラでした。
セザンヌはゾラに励まされつつ2年の歳月をかけ父を説得します。
父を納得させるためにセザンヌが描いた絵がこちら
セザンヌ『四季』1860年
今の感覚だと「なかなかかわいい絵じゃん」って思うかもしれません。
「あり」と「なし」ならまぁ「あり」なんじゃないの?って思うかもしれませんね。
アングル『ホストの聖母』1854年
だけど当時はプロの絵として認められていたのは、このような写真とみまごうほどのリアルな絵だけでした。
今のように自由な作風が許される時代ではなかったので、じつはセザンヌの描く絵は「なし」よりの「なし」でした。
要するに下手だったということですね
父はこの絵を見てパリ行きを許したらしいですが、片田舎とはいえ銀行家として成功していた父です。絵の良し悪しが全くわからなかったわけではなさそうですし
おそらく息子の絵の才能を認めて許したんじゃなくて「これだったらすぐに諦めて帰ってくるだろう」と安心してパリに送り出したんじゃないかなと想像しちゃいます。
現実をしっかり見て早く帰ってこいという親心ですか
父の真意はさておき、父の赦しを得てパリに出たセザンヌ。
だけど案の定、美術学校の入試には失敗。
数ヶ月で故郷に帰って父の銀行を手伝うことになってしまいました。
父の「計算通りっ」という声が聞こえてきそうです。
だけど、父の計算外だったのがゾラの存在でしょう。
ゾラは傷心のセザンヌを励ましなだめて再びパリに引っ張り出します。
セザンヌ『殺人』1867〜70年
とはいえ、ゾラがいくら励まそうが、セザンヌの絵が世間に認められることはなく、何度挑戦したって美術学校の入学すら認められませんでした。
学校の代わりに美術館へ行き模写をする日々、そんな認められないストレスをぶつけるようにセザンヌの絵は重苦しく暗いものとなっていきました。
その頃に出会ったのがのちに印象派を結成する若き芸術家の卵たち。
ただ、本来人付き合いが苦手なセザンヌはパリの洗礼された新進気鋭の芸術家たちの間で浮きまくり、馴染めないばかりか、負けじと強がるうちに鬱陶しい存在として疎まれてしまう不器用さが切ない(ノД`)シクシク
人格者だったピサロだけは、毒吐くセザンヌに辛抱強く絵の技法を教え、明るい戸外へ連れ出します。
ピサロ、めっちゃいい人
ピサロと一緒に絵を描くうちにセザンヌの絵が劇的に明るくなります。
第一回印象派展に出品
セザンヌ『オーヴェール=シュル=オワーズの首くくりの家』1873年
こちらは、第一回印象派展に出品したセザンヌの絵です。
劇的に作風が変わってますね。
こちらの絵は評価されて、300フラン(15万円くらい)で売れました。
とはえ、セザンヌが画家として認められるのはまだまだずっと後のお話です。
ポール・セザンヌ『モデルヌ・オランピア(新しいオランピア)』1873-1874年
これは『首くくりの家」と一緒に第一回印象派展に出品した作品。
エドゥアール・マネ『オランピア』1863年
マネが世間を騒がせた名画「オランピア」に対抗して描かれたものです。
セザンヌはマネのことを「チャラくて嫌い」と言っていたにもかかわらず意識しまくりです。
テーマこそ斬新だった「オランピア」ですが、絵の技法はあくまでも古典的だったためセザンヌは斬新な技法で新しいオランピアを描いたんです。
ただ・・新しすぎる(゚∇゚ ; )
個性的な絵が評価されるのはこれよりもずっと後の時代ですからね、新しすぎて批判の集中砲火を浴びてしまいました。
マネを兄貴と慕っていた印象派の画家たちもドン引きです。
エドゥアール・マネ『エミール・ゾラの肖像』1868年
すでに小説家として成功していたゾラは、そんなセザンヌを見捨てることなく、精神的にも金銭的にも援助を惜しまなかったんですが、ゾラの書いた小説「制作」の中に登場するうだつが上がらず自殺してしまう画家というキャラクターを自分のことだと思い込んだセザンヌはゾラと絶縁。
ちょうど父親がなくなり莫大な遺産を相続したセザンヌは田舎にアトリエを構えて引きこもってしまいました。
自分の絵と向き合ったセザンヌの新境地
生活のために絵を描く必要がなくなったセザンヌは自分の絵とがっつり向き合い、自分がどうしても上手くかけなかった遠近法に疑問を抱きます。
遠近法とは人が片目でみた時の視点を絵に落とし込んだものです。それをセザンヌは不自然だと感じたんです。
人はずっとウインク状態で世界を見てるわけではないので、実際は一点遠近法で見てるわけではありません。
そこでセザンヌは遠近法よりもよりリアルな視点を求めます。
ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899年
なにか違和感のある絵だと感じますよね。
その違和感の正体は1枚に絵の中にたくさんの視点が存在すること
私に上手く説明できるかわからないんですが、頑張ってみます(ง •̀_•́)ง‼
静物の形って変わらないと思ってしまいますが、じつは片目ずつ物を見るだけでも見える向きが若干変わります。
何かを観察する時って
近づいたり離れたり、横から見たり、上から見たりと実際は一つの方向からではなく、たくさんの視点で見ることで物の形を正しく把握するじゃないですか。
たくさんの視点でみた情報を脳の中で1つの物体として整理し把握しています。
それをセザンヌは1枚の絵の中でやっちゃってるんです。
試しに、セザンヌの絵を斜め左右、近づいてみる、離れてみると視点を変えて見てみてください。
見る角度により歪みが補正されて、遠近が変わります。
これを多視点方といって、セザンヌにとってのリアルだったんです。
西洋絵画350年以上にわたって画家たちが極めようとした一点遠近法からの脱却です。
ポール・セザンヌ『大水浴』1906年
こちらは遠近法や仕上がりにとらわれることを放棄して、ただ画面の中の調和と構成にのに集中した作品です。
ちょうどそのころに写真が一般的になりつつあり、写実的な絵画の存在意義が疑問視される時代になったのも大きかった!
モーリス・ドニ『セザンヌ礼賛』1900年
セザンヌの実験的な技法は絵の可能性を大きく広げて、絵画にしかできない表現を模索していたピカソやマティスと言った次世代のアーティストたちに希望を与えました。
セザンヌが「近代絵画の父」と呼ばれるようになったのはそのためです。
ゴッホは生前に評価されることはなかったですが、セザンヌはギリギリ間に合いました!最晩年は若き芸術家たちの間でカリスマ的な人気を博し、パリ万博にも作品を出品することができました。
セザンヌはパリに出る時に「リンゴで世の中の人を驚かせる」とゾラと約束をしていました。
親友のゾラと疎遠になってから多くのリンゴを執拗に描いています。
ゾラの小説の内容に絶望したのではなくて、自分を信じてくれたゾラを失望させてしまったと思い込んで落ち込んでいたとしたら
約束が叶ったらゾラが会いにきてくれるんじゃないかって期待していたのかも。コミュ障は基本受け身ですから。
ゾラは来なかったんですけどね
セザンヌが本当に描きたかったのはリンゴだったのか、本当はゾラと再会する未来だったのか…
疎遠になっていたにもかかわらずゾラが63歳で亡くなったとき、セザンヌは喪に服しした。できれば生前に仲直りして欲しかったっ!!
セザンヌは67歳のときに肺炎で亡くなりますが、最後の最後まで絵筆を握っていたそうです。
本日は以上です。お読みいただきありがとうございます。
また次のご来館を心よりお待ちしております。
コメント
セザンヌって、最初の頃は絵が下手っぴいだったのね。美術学校目指すなら、もうちょっと上手に描いてもらいたい気がする。
実はセザンヌ、昔すごい好きで、サント・ヴィクトワール山とかりんごなどの静物とか、よく展覧会に見に行ってたのよね。でもそこに最初の頃の絵はなかったから、そんな下手な時代があったとは知らなかったー。
その多視点の凄さと言うのを知りたくて色々なサイトを見ているのですが、どうにも分かりません。書き直してもらえますか?
まいさん、コメントありがとうございます。
書き直しはしません(^▽^;)
誰が見てもキレイ、スゴイっていうのじゃなくて、「わからない」って思えるものが現れたところが美術史的にはスゴイところなんじゃないかって私は思ってます。